こども連れの家族をみると、いいなとおもう。
赤ちゃん可愛い、というのももちろんだけどただ、必要とされることって羨ましいとおもうからだ。
その羨ましい気持ちは、なにか手に入るものをおもうときとは違うもの。
遠くて、決して手に入れることができない、
形も色も思い浮かべすぎて自由に変化してしまった。
その気持ちをおもい出すたび、私は私の内側で孤独が大きく息を吸って成長するのを感じる。
いらだっている。いくらいいわけを考えても、いらだちは全部自分のせいで、色んなこと上手く出来ないのも、我慢出来ないのも全部自分が悪い。自分自身をたちなおれなくなるくらいバラバラに解体して、重要だけど重たい部品とか全部捨てて、軽く仕上がるように組み直したい。
つかまってったら
I get smaller and climb this thread
沢山の風景のただ、表面だけを撫でて見送るのではなく、
選びぬいた景色と内密になりたい。
内密になったイメージのことを、丁寧に覚えておきたい。
そしてその作業を忙しなく繰り返すのではなく、息をするように次へ、また次へと
止まること無く続けていきたい。
嵐の日や、風の強い日。窓の外を眺めると、普段は「あっち側」として見ている窓枠の風景が、ちょっと変わって見える。枠の風景はいつも無音に近いので、こちら側の音と一緒に感じとっているけれど強い風がガラスや網戸に押し当たったり、木々がうねるのを聞くと「守られている」と感じる。
昨日の風の勢いが、この朝もまだ残っている。大きな花瓶に生けてあった、黄色いフリージアと白いバラが別々に小分けにされている。バラは昨日、一日中新聞紙に包まれて水を吸うように治療されていた。花屋だった父親は、花を買ってくると枯れてしまうまでずっと丁寧に手入れをし続ける。茎を切っていくので、花は小さめになって家のあちこちに飾られていく。人に対しても植物に対しても動物に対しても、なんでも同等にごく自然にやさしい父親は、いつもこつこつと家族を守って来た。
今夜はタケノコご飯という日、父親はいつもご近所の山椒の木からこっそりと家族の分の山椒の葉をもらってくる。そう言えば今年もタケノコの季節がもうやってくる頃だ。